誰かにとっての悲劇が誰かにとっては人生を盛り上げる喜劇になるし、…

誰かにとっての悲劇が誰かにとっては人生を盛り上げる喜劇になるし、最高に笑える喜劇は最悪の悲劇でしかないことだってある。そしてその善悪を定めるものは誰だっていない。それはつまり誰でも定めていいものだし、逆に定義できないからこそ誰にも守ることができない。誰かが「これが真実だ!!」と思い込んでやった行為や信念が真逆の嘘偽りであった時、それを阻止していた人たちはどうなるのか。真実だと思い込んでる人にとっては悪であるが、俯瞰的に見れば善の存在である。世界とは混沌である、その真理を最も端的に啓示した恐ろしい言葉であると思っている。

現実の真の姿は、混沌としています。それは、それ自体のための秩序ではなく、むしろそれが混沌であるための秩序であり、この混沌こそが真の秩序の源なのです。これは、私たちが何かを信じなければ異端者として非難されるときによくあるように、ドグマと間違えてはいけない真実です。それはドグマではなく、むしろ真実なのです。

真実とは、私たちは自分の運命をコントロールすることはできないということです。自分の身に起こることに責任はありません。この事実は、私たちをタオの真理に近づけてくれます。そして、真理への最も直接的なルートは、最も抵抗の少ない道なのです。

道教には、どんな状況にも当てはまる非常にシンプルな原則があります。それは、「しない」という原則です。何かをしていなければ、すでにやられているのです。何かをすると、すぐにそれが終わってしまいます。例えば、食事をしていなければ、食事をしていないことになります。もし私たちが休んでいなければ、私たちは休んでいません。もし私たちが自分の仕事をしていなければ、私たちは自分の仕事をしていません

Photo by sherryanndizon8

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