Full care, car was to become, Ms. Note…
中学二年の頃だったか三年の頃だったか。通っていた塾で、先生が何かの折にホワートボードに書いた言葉だ。
「意味は分かるか?」
文章になっていないことは分かるが、意図が分からないという反応が大半だった。
「古池や、かわず飛び込む、水の音」
意味ではなく音だけをとらえた言葉だと分かり、納得するも腑に落ちないという顔をする生徒もいたが、私は妙に感動していた。今でもたまに思い出しては、適当な俳句を選び、音だけの英訳を頭の中で唱えることがある。暇つぶしのようなものだ。
じゃあ、なんで使ったんだろう?
新しい俳句と謡曲。
しかし、それだけでは物足りない。
それこそ、音だけの翻訳された言葉を唱え続けるのだ。
文章の意味は、その一部に過ぎなかった。
意味は音だったのです。
私が唱えているのを見た先生は、戸惑いの表情を浮かべているだけだった。
“古い池、かわしたり跳ねたり、水の音がする。
古池、かわして跳ねて、水の音。
あれはどういう意味なんだ?
言えないなら、俳句でもあげればいいのに。詠唱を続けたいと思います。”
“申し訳ありません。私には理解できないでしょう。古池、かわして飛び跳ねる、水の音。
古池、かわして飛び跳ねる、水の音。
水の音は答えではなく、答えそのものです。
では、その答えとは?”
私は怒りを感じませんでした。
むしろ、悲しい気持ちになりました。
この文章の意味は、文章の一部だけではありませんでした。
意味は音だったのだ。
私は理解することができなかった。
それが問題だった