「社会」という言葉を聞いたとき、なにを思い浮かべるだろう。

「社会」という言葉を聞いたとき、なにを思い浮かべるだろう。
「社会人」「日本人社会」「国際社会」「社会に貢献する」「縦社会」「社会に適応する」「ネット社会」……。とにかく、いろんなところで使われる言葉で、たくさんの場所に存在している。
どんなところにも存在し、この言葉を使うだけで、なんでもその場所やその集まりが、「社会」と言えばひとくくりにまとめてくれているように思える。

辞書で、「社会」と引いてみる。
goo国語辞典によると、“人間の共同生活の総称。また、広く人間の集団としての営みや組織的な営みをいう”と、1つ目の意味として出てきた。つまり、社会人と言われ、働くことがメインになった大人たちだけではなく、子どもにだって、家族にだって、年齢も性別も人種も、働いているかどうかも、関係ないということだ。そして、物理的に人が目の前に存在する場所だけではなく、もちろん、ネットという空間にも、社会が存在する。

けれど。
調べてみると、考えてみると、「社会」というのは、すでにそこに存在しているもので、「社会」というところに個人が飛び込むことが前提のような気がしてくる。「社会に適応する」とか「社会不適合者」とかいう言葉があるから、すでに存在している「社会」に、個人が、自分が、合わせていかなければならないんだと思ってしまう。
果たしてそうなのだろうか。
ネットで「社会」と打ってみると、検索候補には「社会 とは」「社会とは 簡単に」「社会 語源」、とだれもが社会とはなにかを知ろうとし、確認しようとしている。

わたしもそうだ。
わたしは、つい最近、会社をやめた。
2社目をやめた。
13年勤めた会社をやめて、ようやっと、人のご縁がつないでくれた会社に入ったのに、「働くとは、人の役に立つこと。それが、いつのまにか自分のやりたいことになっている」と天狼院書店の三浦さんにも教えてもらったのに、やめてしまった。たったの2ヶ月半で。
役に立てると、思っていた。役に立ちたいと、思っていた。
これまでの経験や知識を用いて、そして、前職をやめてから学び始めた文章を書くことで、できることがあるはずだと。けれど、やめてしまった。
わたしは、すでに存在している、その会社の「社会」に、混じろうとした。混じることでなにか新しい色が出せたらいいな、と思っていた。CMYKでつくられている今の色に、わたしだったり、他の新しいメンバーだったりが混ざることで、抱えている課題を解決したり、新しい発想が生まれたり。ときにうまくいかなくなって悲しい色になるかもしれないけれど、やさしい色にも変えられるような要素が生まれてきたり。この会社で働くことで、そんな変化が自分にも起こればいいなと思っていた。
ところがそれは、わたしには難しかった。
どうやら、わたしの色は合わないのだ。
会社の色に異なる色が混ざることは、悪いことではないと思う。けれど、想定していなかった色が一気に入りこむのは、望ましいことじゃない。相手だって驚いてしまう。だから、理想は、徐々に徐々に自分の色を入れていくことだ。コーヒーにミルクが溶けこんでいくように、なめらかに。

ただし、だ。
わたしは、混ざろうとしたときに気づいてしまった。
混ざろうとしているその社会には、自分とは共通点がないのだと。
きれいに混ざる可能性がないものも、あるのだと。
「ミルク以外でコーヒーに混ぜられるものを探してみたけど、これは分量変えて混ぜたとしても、合わないよね」というふうに。

すでに存在する社会に、新たに参加するのは不安だ。
わたしであれば、「(前職のときと同じように)また体調崩したらどうしよう」とか「喘息の発作が出たらどうしよう」とか「全然仕事についていけなかったらどうしよう」とか「自分だけ売り上げ達成できなかったらどうしよう」とか「そもそも馴染めなかったらどうしよう」とか、キリがない。
社会と呼ばれる場所には、たくさんの人がいる。
個人的に思うのは、人が集まれば集まるほど、その人の社会に対する考えは異なり、いくら決まりごとだったとしても守らない人はいるし、その決まりごとを理解していても誤解していて守れない人もいる。
すでに存在している社会というのは、そういうものなんだとわたしは思っている。

けれど、それだと悲しいのだ。
同じ目的があって、本当はみんな「よりよくしたい」と思っているはずなのに、手段が変わってしまったり、いつのまにか目的が変わってしまったり。

先月、とある団体の活動説明会というものに参加した。
「どういうきっかけがあってこの活動をしようと思ったのか」
「実際になにをやっているのか」
「協力してくれている人たちはどういう想いで参加しているのか」

説明をしてくれる人たちは、みんな、考えを強制しない。
ただ、わたしたちはこういう考えのもとに活動している、と。そこはこれまでも、これからも変わらないのだ、と。けれど、つづけていくためには仲間が必要だと。わたしたちと同じように考えている人、共感してくれる人に、なんらかの形で活動に参加してほしいということを話していた。
協力している人たちは、根っこにある考えや活動に共感し、そこから出てきた想いの種を共有し、自分の中でも育てているような人たちだった。

そして、これを書いている数日前にも、わたしは似たような体験をした。
北海道を観光だけではなく、「北海道=教育、と言われるようにする」と動いている人の話を聞いたのだ。
共感してくれる教育機関も出てきて、成果も徐々に現れてきていると。
ただ、北海道全体に広く広めていくためには、広める側の人間が足りないと。
だから、こうして考えていることや実際にやっていることを話して、同じように考えてくれる人を探している、と。

個人が強い想いを持って始めたことが、人に共感され、その人たちが同じ想いを持って動き出すと、「社会」になる。社会とは、きっと、「個人の想い」の集合体なのだ。

ただ、「個人の想い」はそう簡単には伝わらない。
たとえば、甘いクリームのところだけ味わうのではなく、相性の合う別のものが混じり合うことで、本当においしさがわかるように。深いところまで知って、「あぁ、これはそういうことなのね」と理解しないと、本当の共感は生まれず、自分の種は育たない。

そのためには、とことん、話さないといけないのだ。
聞く側も、わからないのであれば、根っこのところを理解できるまで、聞かないといけないのだ。
そうしないとわからない。
わたしは、2社目でそれが足りなかった。
どこかに所属することが目的になり、その職種を経験することが目的になり、「この会社の考えに共感できるか。その言葉と行動に共感し、同じように行動できるかどうか。この会社の言葉と行動を広めたいと本気で思うかどうか」を考えることを怠ってしまった。

「うるさい」と言われるかもしれない。
けれど、それで終わってしまうのであれば、そこまでだ。
説明する側も、本当に達成したい目標があるのであれば、それはやっぱり、回数を重ねて、話さないといけない。1回の時間は短くていい。けれど、伝わるまで何度も話さないといけない。
根っこの部分をとことん理解するまで聞き、共感できるかどうか。同じように考え、それを人に広め、共感してくれる人を自らが増やそうと思えるかどうか。
それが、北海道とか日本とか、身近にある1番大きな社会のなかで存在するっていうことなんじゃないかと、わたしは思う。

でも、それにしても、めんどくさい!
いま書いてても、「ここまでしないといけないのか! めんどくさっ!」と思っている。
こんなめんどくさいことをしなくても、いろんな社会に馴染める人は山のようにいるだろう。
けれど、残念ながら、わたしはどうやらめんどくさいことをしないと見つけられない。
幸い、今は、伝える方法がたくさんある。
あとは、言葉と行動がリンクしているかどうか。
そして、自分の根っこと共通する部分があるかどうかで判断すればいい。「もしかしたら自分は違うんじゃないだろうか?」と思うようなことがあれば、その都度、話す機会を持っていきたい。

おそらく、わたしが聞いた先の2つの話をしていた人たちは、そういう人たちだ。
根っこが間違っていなければ、「そういう考えも、もちろんいいよ」と受け入れて、一緒に不安を小さくしてくれるような気がする。全くもって根っこが違うのであれば、自分が存在すべき場所はそこではないのだ。そうなれば、今度は自分が探す側になるだけである。自分の考えを人に話し、共感してくれる人を探す。そして、同じように考えてくれて、広めたいと思ってくれる人と、新たに社会をつくればいい。

辞書に載っていた「社会」の意味。
「人間の共同生活の総称。また、広く人間の集団としての営みや組織的な営みをいう」

社会は参加するものではない。

個人が、自分以外の個人に共感し、そうして個人だった人たちが集まると、それは「社会」になる。
そして同じ社会を一緒につくり、広めていく。
それで、「共同」になる。

社会はこうしてできるんだと、わたしは思う。

“人間の共同生活 “を指す広義の言葉。また、広い意味での人間の集団的・組織的な活動を指す言葉でもあります。つまり、「働く大人」と呼ばれて主に仕事をしている大人だけではなく、年齢、性別、人種、仕事をしているしていないにかかわらず、子どもや家族も含まれるのである。1849年に日本語で発表されたこの言葉は、19世紀半ばから同じ意味で使われているようです。
社会」という言葉は、いくつかの異なる意味で使われています。
1. 共通の目標を達成するために協力する人々の集団、または一つの共通の目標を達成するために連携して行動している人々の集団。
2. 共通の目標を達成するために、あるいは特定の目標を達成するために、互いに協力・連携している人々の集団。
3. 共通の目標を達成するために、あるいは特定の目標を達成するために、互いに協力し、連携して行動する人々のグループ。
共通の目的を持った人々の集団という意味で「社会」という言葉が使われているのであれば、「社会」は幅広い意味を持っているように思えます

この作品の出来はいかがでしたでしょうか。ご判定を投票いただくと幸いです。
 
- 投票結果 -
よい
わるい
お気軽にコメント残して頂ければ、うれしいです。