上手く説明するのが難しいし、かつ自分以外の人も似たように感じてい…

上手く説明するのが難しいし、かつ自分以外の人も似たように感じているのかは定かではないのだけれど、僕が思うに鬱と悲しみは少し違う。 重みに押しつぶされてしまいそうに感じたり、息が出来ないような、とでもいうのか、ゆっくりと溺れていくような気持ちで、刺すような悲しみとでもいうのか、強いネガティブな感情というのとは違うように思った。 逆に、むしろ毎日のように死にたいと思っていた日々の中で\"悲しい\"出来事というのはあまりなかったように記憶している。 何故なら、死ねば良いから。 いわゆる無敵の人という表現があると思うが、この状態と似ている。(個人的にはこの言い方はあまり好きではなくて、敵がないというより全てが敵の人、のような言い方の方が的を得ているようには思うが) 別に自分の人生が今日で終わっても良いと考えている以上、その中でどんな出来事が起こってもそこまで真剣にとらえることはできない。 すぐにでもやめる気でいるゲームをプレイしている最中にゲーム内で強敵が現れたりしてもそれに一喜一憂したりはしないのと同じだ。別にうまくいっても嬉しくないし、逆にうまくいかなくても、どちらにしろクリアしたいと思っておらず、電源を切るタイミングを窺っているだけなのだからゲーム内で躓いても別に悲しいもクソもない。 したがって、人生を終わらせたいという気持ちが非常に強まると人生の中で起きる出来事に対して幸せや悲しみを感じづらくなっていったのだけれど、そんな中でも唯一僕が衝撃的だった出来事、というか自分の中で非常に悲しく思った出来事があった。 出来事というよりも、単なる自分の中での発見なのだけれど。 それは、僕が『世界中の自分以外の人が死んでも特に悲しいと思わない』という事実だった。

物語は、15歳の中学生・悠人が不治の病と診断されるところから始まる。 彼は主治医である中山幹久から「幹久」という名前を与えられる。 中山の父は大手銀行の創業者、母は大企業の社長。 悠人の父は亡くなり、母は会社を経営し続けている。 物語が進むにつれ、主人公が兄と親しくなることで話が変わっていく。
悠人と兄はどちらも心優しいが、多くの点で大きく異なる。 悠人は一人っ子で、兄弟は妹の幹久だけです。 兄弟はとても仲が良く、仲良くしていないときは、たいてい一緒に何か楽しいことをしています

Photo by alasdair massie

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