坂についてまずは、坂自体について理解する必要がある。

坂についてまずは、坂自体について理解する必要がある。そのため、坂そのものについて中西宏次氏の執筆された「京都の坂」をもとにまとめると、次のようになる。平安末期頃、天皇を究極的に「清浄」な存在とし、それを最高の権威の源とする政治体制が造られていったため、天王の側仕えをする貴族も清浄であらないといけないという認識から、貴族の間で死を「ケガレ」として忌む風俗が広がり、人々は「ケガレ」を避けるようになる。その結果、死者は鴨川を渡り、東山山麗の鳥辺野に葬られるようになった。鳥辺野に葬られる死者は鴨川の五条橋から六道の辻を通り、鳥辺野に運ばれた。また、近世には、六道の辻から少し南東へ行ったところに、「南無地蔵」という無縁墓地と「鶴林」と呼ばれる火屋(火葬場)もあった。このことからわかるように、平安京にはこの場所の他にも葬送地はあったが、清水坂という場所はこの世とあの世の境界であるという場所となる。清水寺や鳥部野・六道珍皇寺周辺は、昔から葬送に関連深い地域として知られており、これらの場所は当時の非人たちが葬送儀礼を行なっていたこと、地域全体で葬送の役割を果たしていたことを物語っている。清水坂非人については、三枝氏によると、吉田秋二の研究によりすでに十世紀の段階で清水坂には乞食が群衆する状況にあり、十二世紀中期以降にはその施業が権利化されていたという。そしてその集団は長吏に統率された宿非人として十三世紀に史料に現れはじめ、その規模は京都随一であった。清水坂非人は京都を拠点として近江・丹波・摂津・紀伊やそのほかなどの各国に末宿を組織していたことがあげられている。

下の地図からわかるように、この場所のそばは、死者が搬送されたのと同じ地域である。以下は、それぞれの場所を見分けるための地図である。清水坂は六道辻の西にあり、その中にあるのがかつて日本の蓮華と呼ばれていた場所である。そのほか、六道輪、鳥辺野、鳥辺野橋がある。なお、遺跡の名称は時代とともに変化している。これは、上の地図が示すように、この世と冥界の境界が以前考えられていたよりも少し明確になり、遺跡がより明確に定義されるようになったからである。下の地図は、現代における遺跡の位置を示している。ご覧のように、東山山系の東にあった「鳥辺野遺跡」は「鳥辺野高」になった。鳥辺野郷の南西には鳥辺野重村があった。この地域はエリートが利用し、遺体はこの地に地下墓地として運ばれた。鳥辺野重村と呼ばれていた場所が鳥辺野になり、鳥辺野高と呼ばれる墓地ができた。他の遺跡の位置は時代とともに変化し、甑島川付近が甑島越(大古墳)の地となった。東山山地の西にあった鳥辺野古墳は鳥辺野市になった

Photo by Josh Rokman – AI Images

この作品の出来はいかがでしたでしょうか。ご判定を投票いただくと幸いです。
 
- 投票結果 -
よい
わるい
お気軽にコメント残して頂ければ、うれしいです。