当時の町屋川は西から、元々川だった「浅川」「相川町」「矢田磧」を…

当時の町屋川は西から、元々川だった「浅川」「相川町」「矢田磧」を通って、東に位置する城や住宅街などの城下町に向かって流れていた。桑名は河口付近にあり洪水を起こしやすかったし水捌けが悪いから。そこで忠勝は、途中で川筋を南に曲げて、揖斐川と合流して伊勢湾の方へ川の流れを変えることで、城の洪水の被害を防ごうとしたから。

城に水が流れ込むのを防ぐため、彼は河口に木製の堰を作らせた。その後、忠勝は上水道を整備し、川の流れをせき止めるダムを作ったが、十分ではなかった。そのため、水は再び城に流れ込むようになった。厳格な忠勝は、城門に鎖をかけ、城壁を張るよう命じたが、月[8月]の1日に城門は開かれた。 翌日、城門は再び閉ざされ、城壁は崩された。そして、忠勝は水道の停止を命じた。しかし、城内への水の流入は止まらず、翌日、城門は開かれた。忠勝は水道の停止を命じたが、水は城内に流れ込み続けた。三日目、城門は再び閉じられ、城壁は崩された。その後、忠勝は水道の停止を命じたが、水は城内に流入し続けた。4日目に門が開かれ、水道が止められた。5日目、城門は再び開かれた。 六日目、城門は再び閉じられ、城壁は投げ落とされた。忠勝は水道の停止を命じたが、水は城内に流れ込み続けた

Photo by Miguel Discart & Kiri Karma (Photos Vrac)

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