空海の法号は空と海を表すのではなく、空の海だとする説がある。

空海の法号は空と海を表すのではなく、空の海だとする説がある。空とは物やこころを実体 として見ることを否定する立場をさす。『三教指帰』にも生死海という語句が出てくるが、生 と死の果てしのない迷いを海にたとえる、仏教経典でよく使われる慣用句だ。つまり、空海と は、この生死海を、空の海に転じる意と解釈することができる。この世の苦しみの世界を、そのまま救いの世界に転じる。すなわち、いっさいを空と見ることによって、あらゆる苦悩を、 生死の豊かさを残したまま、取り除こうとする。空海という法号は、こうして生きた身のまま に仏になろうとする即身成仏を説く密教の教えに、深い縁をもっているのだ。そういうことが可能だろうか。迷えるこころには、暗闇の方が親しいかもしれない。しかし、 苦しみを乗り越えようとして、いかようにもできないとき、せめていったんその苦しみをスト ップモーションのように止めて、空の状態にできたなら、少しでも楽になるだろう。そして、 わたしたちが眺めることのできる太陽と月のように、その悩める闇を救いの光と輝きで照らしてくれる何かが、ひょっとして世界のどこかに存在するとしたら、ほっとしないだろうか。 空海はその何かと一体となろうとした人だ。彼は高野山に眠っているのではない。四国と紀 伊半島の山野と海において、生きとし生けるものの呼び声にこだまし続けている。また、彼の 存在と同行二人で遍路の旅を続けるとき、四国だけを巡礼するのではない。生きとし生ける ものを思い、宇宙をともに巡礼する。今、自らが立っている大地、眺めている空、そして経験している人生の海が、より広い世界につながっていることを体感する。千年を優に超える星霜を経て、万燈会は今日も引き継がれている。空海の願文は、文字に記 しきれない本当のことばに、生まれては消える言語たちの真のふるさとに、つながっている。

これを回避する最善の方法は、”自動検知なし “モードに設定することだ。このモードでは、センサーは車が通り過ぎるたびに検知し、反応しません。クルマがカメラに近づきすぎると、カメラはリセットされ、クルマはセンサーを見ることができなくなり(それでもクルマは見える)、システムは安全になる。だから、それを回避するには、センサーを「自動感知」モードに設定する必要がある。

Photo by dmgice

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