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三軒茶屋から徒歩10分のところに借りていたマンションの窓枠には、こ…

今は東京に引っ越してきたので、持ち歩くのに良い傘を持っています。(東京では持ち歩き用の傘は持っていませんでしたが、昔住んでいた近所の人は私と同じような傘を持っているはずです)。

しかし、私のリュックに入っている傘は、傘立てが付いている傘とは違います。傘立て付きの傘は金属製なのに対し、私のリュックの傘はプラスチック製で、重くて折りたためないので持ち運びには不便です。でも、今でも持っていて、毎日のように持ち歩いています。

100円あればプラスチック製の傘立てを買えるのに。でも買えない。

安い傘を買わないわけにはいかない。

私がリュックに入れて持ち歩いている傘は、シンガポールに1年間住んでいた時にもらったものです

Photo by davidseibold

三軒茶屋から徒歩10分のところに借りていたマンションの窓枠には、これでもかというほどビニール傘が並んでいて、手の届かない奥にあるものほどしっかり黄ばんでいた。

雨が降っていたらそこからマシなものを一本選ぶけれども、曇りのち雨であればまた一本新規が増える。雨のち晴れであれば、どこかに忘れてきてしまう。つまりは増えて、増えて、減って、増えて……という具合で、結果的には増える。

上京したばかり、豪徳寺の小さなアパートで暮らしていた頃は、500円の傘を買うことも惜しかった。突然の土砂降りは走って凌いでいたけれど、100円ショップを探して手に入れたショボい傘をそれなりに持ち歩いていたような気もする。つまり「どこのコンビニでも手に入る500円の傘を買うことに躊躇いはないけれども、1メーターだけタクシーを使うことはできない金銭感覚」の間では、ビニール傘は無尽蔵に増え続けてしまうのだ。

コンビニで500円の傘を買うとき、その隣にある1490円くらいの「ちゃんとした」傘にすべきだろうかと、いつだって数秒迷う。ちゃんとした傘を買えば、もうビニール傘を増やす人生は終えられるんじゃなかろうかと。けれども1490円の傘だって、しっかりしているけれど、心が高揚するほどのものじゃない。

「いつかとびきり美しい傘を買って、それを大切に使い、傘を溜め込まない生活を送るんだ」という自分への期待ばかり膨らませながら、晴れの日になると傘のことなんてさっぱり忘れてしまい、雨の日になるとまた500円の傘を買う。夫も似たような消費行動をしていたので、二倍の速度でかりそめのビニール傘は増え続けた。

傘だけじゃない。三軒茶屋のマンションには同じ調子で、大量のものが溜め込まれていた。

雑誌に出るためだけに買った見栄えのする服。なぜか買ってしまったロゴ入りのマグカップ。見た目は可愛らしいけれども料理には似合わないカラフルな食器や、数回使って固まってしまったマニキュアに、回さなかったフラフープ。仕事で関わったからと買った雑貨、ちっとも続かなかった美容家電に、無印良品のアクリルケース。

買うときは、どれもこれも、気持ちが高揚していたはずなのに、数回使えばもう心が動かない。三軒茶屋のマンションは2018年7月のあたまに退去して、アメリカに引っ越す予定だったので、引越し先に持っていきたいほどの愛着ある荷物はすでに船便で出荷していた。

そして残った「持っていきたいほど」に至らなかったものの多さに、我ながら呆れてしまう。一体これまで、何にお金を払ってきたんだろう。たった数年で捨ててしまうものを集めるために、身を削って働いてきたんだっけ。

メルカリで売る時間もないので、Facebookでガレージセールの告知をしたところ、友人知人がぞろぞろと集まってきてくれた。過去一瞬でもときめいたものたちに別れを告げていく。惜しげもないものだと思っていながらも、人の手に渡るとわかった瞬間には、身を裂くような痛みが伴う。少しばかりの楽しかった記憶が別の家に持ち去られていくようで、自分の東京での思い出が消えてしまうような気もして。

あれよあれよという間にものは友人たちによって引き取られ、最後は民間の粗大ごみ業者が来て、引き取り手のつかなかったものを回収しておしまい。こんなに簡単に、ものはゴミに変わるのか……と呆然と業者さんに数万円払って、トラックを見送る。本当は世田谷区の粗大ごみとして出したかったのだが、計画性がないので、引っ越しまでに予約が間に合わなかった。

遠い土地への引っ越しは、手垢のつきすぎた暮らしをリセットするには都合が良い。傘を溜め込むタイプの人間も、新天地では別人格としてやり直せるはずだ。やり直そう。これからは、本当に必要なものだけ迎え入れよう。そしてもう、思い出を軽々しく手放したくない。

引っ越し作業を終え、移住のための書類仕事に疲れ果て、鼻血を出し、さらにぎっくり腰になった最悪の状態で、私はひとりヨーロッパ行きの飛行機に乗り込んだ。引越し先はアメリカだが、夫がヨーロッパで仕事があるので、そこで落ち合い、それから新大陸に向かうのだ。

「やぁ、何飲みます?」

いかにもやんちゃなロンドンの若者ふたりはそう尋ねてきた。いや違うんです、私たちは傘を買いに来たんですと強めに伝えた。

東京のヘアサロンで適当に渡された雑誌に、イギリスの老舗メーカーが作る美しい傘が載っていた。「これぞ生涯大切にすべき傘なんじゃないか」だなんて大それた気持ちになり、ネットを探しに探して、ロンドンにある老舗傘屋の店舗まで辿り着いたのだ。2018年7月10日、日差しの強い、よく晴れた真夏日のことだった。

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