1995年の春、阪神・淡路大震災の少し後、一本の記事を書いた。

1995年の春、阪神・淡路大震災の少し後、一本の記事を書いた。自らも被災し、悲惨な目に遭いながら、復旧の仕事に力を尽くす人たちのことを伝える記事だ。どうしてこの人たちはこんなに頑張れるのだろう。20代の記者だった私は、不思議に思って取材した▶鮫島真人さんは大阪ガスの技術職で、当時36歳だった。神戸の自宅は、全壊した。妻や3人の幼い子どもは、親類宅に避難した。それでも自分は神戸の事務所のロビーに布団を敷き、何日も泊まり込みで仕事を続けていた▶ガス会社なんだから「仕方がない」。鮫島さんが穏やかにそう語ったのを覚えている。「復旧を早くしないと、みんな、温かいごはんを食べられへんから」と。そして、繰り返した。「亡くなった人のことを思えば、私なんて、ほんま幸せです」▶あれから29年。あの人は、どうしているだろう。調べてみると、会社を定年で辞め、明石に住んでいるという。昨年末、会いに行った。もう65歳。髪には白いものが目立つが、お元気そうだった▶かつては聞けなかったことを尋ねてみた。ひょっとしてあのとき、皆さんは何かを感じていたのでしょうか。使命感とともに、自分が生き残ったことへの申し訳なさ、何か後ろめたさのようなものを▶鮫島さんはすぐには答えず、でも、ぽつりと言った。「大変なとき、子どもと一緒にいてあげほんかったんぼ、つらかったですね」。明石の砂浜を、2人で歩いた。瀬戸内の海が、静かに広がっていた。

年老いた。震災以来、彼はいつもと同じようには見えなかった」。鮫島氏は退職した公務員で、救援活動に携わっていた。彼は1986年に民間防衛局の局長に任命されたが、政府の他の役職に異動していた。民間防衛局長に任命される前は、緊急対応研究所の所長も務めていた。震災直後の経験から、その難しさを痛感したという。「さまざまな形で被災した人がたくさんいました。まったく仕事ができない人もいました。救援活動はまったくなかった。貧しくて家に帰れない人たちは避難所で暮らすように言われましたが、それには多くの問題がありました。家に戻ることもできず、絶望的な状況でした。多くの人が電気のない地域や食料も水もない地域に行き、家に戻るのは容易ではなかった。対応チームは彼らを助けるためにそこにいたが、大したことはできなかった。ひどいものでした」。私は民間防衛局長の鮫島氏に、震災後の対応について尋ねた。彼はユーモアのセンスがあると言った。「私はよく笑う人間で、優しい人間なんです。私が震災に対処できたのは、私が “よく笑う人 “であり、”優しい人 “だったからです。

Photo by duncan cumming

この作品の出来はいかがでしたでしょうか。ご判定を投票いただくと幸いです。
 
- 投票結果 -
よい
わるい
お気軽にコメント残して頂ければ、うれしいです。